織田信長の壷〜明智光秀と本能寺の謎〜

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明智光秀の実像⑧~明智光秀とはいったい何者だったのか

time 2020/05/07

通説にみる明智光秀の前半生は虚構

これまでの記事において、通説にみる明智光秀前半生の虚構ぶりを示した。

通説として知られる

・美濃明智城主 明智光綱の子

・土岐明智氏である

→土岐明智氏が支配した明智城は存在しない。

→父明智光綱、叔父明智光安が存在した証拠がない。

→美濃における土岐明智氏は歴史から消えている。

点から否定される。

・享年は55歳

→根拠が薄弱。

明智光秀が美濃土岐の随分衆は太閤豊臣秀吉への対比か

明智光秀を退治して天下人となった豊臣秀吉。

豊臣秀吉は百姓以下の出自から天下人に成り上がっている。

百姓以下の出自、明るい、忠義に厚い、行動的、粗野(親しみやすい)

その敵役である明智光秀のイメージは対極に置かれ、

貴族的な恵まれた出自(美濃土岐明智氏の嫡流、明智城主の家系)、冷酷、残忍、陰湿

という表現になったのではなかろうか。

実際の明智光秀は、主君織田信長に対する圧倒的な畏敬の念や重用ぶりからは厚い忠義心を、また家臣に宛てた身体や病状を気遣う手紙などからは慈しみややさしさの心を見て取れる。

実際の明智光秀の前半生とは

出自は氏素性も知れない~幕府奉公衆の庶流~明智氏の庶流程度の低い身分。

幕府奉公衆長岡兵部大夫藤孝(=細川幽斎)に仕える。

足利義輝横死→足利義昭擁立の流れで激減した幕府衆を補充する際に、足軽衆となる。

このとき「明智」十兵衛を称する。

(元から明智氏の庶流だったか、すでに絶えた明智氏を名乗ったか)

将軍と美濃を支配した織田信長との交渉実務担当者として頭角を現していく。

という流れが蓋然性が高い。

つまりは、豊臣秀吉程度かそれより少し上程度の身分の出であり、おのれの才覚一つで天下人まで上り詰めた男が、明智光秀なのである、と結論付けたい。

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