織田信長の壷〜明智光秀と本能寺の謎〜

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80歳超の老人が58年前の出来事を著した「本城惣右衛門覚書」の信ぴょう性

time 2019/04/10

80歳過ぎのお爺さんの昔語り「本城惣右衛門覚書」

本能寺の変を語る資料の一つに、「本城惣右衛門覚書」というものがあります。

これは、本能寺の変に参加した本城惣右衛門と言う人が、自分の親戚に伝えるために、寛永17年に書き残したものと言われています。

ただ、本城惣右衛門という人間が実在し、著したことが事実だとすると、天正10年(西暦1582年)に起きた本能寺の変の事を、寛永17年(西暦1640年)に書いたことになりますから、本城惣右衛門は58年前の出来事を書いたことになります。

もちろん、この資料がニセモノという可能性は十分にあります。

出所不明の「本城惣右衛門覚書」

神秘的国粋論が色濃くなった「日本及日本人」の昭和5年(1930年)1月号に、林若樹により掲載されました。

林若樹は、豊前小倉藩士の家系で、祖父は蘭方医の林洞海、父は林研海(二代軍医総監)で、旧制第一高等学校を中退し、東京帝国大学の教授・坪井正五郎(人類学者)に私淑し、親の遺産で生活し、江戸通として雑多な古物を収集した人物です。

その林若樹が、不明者から昭和5年1月に取得したのが「本城惣右衛門覚書」であり、即昭和5年1月発行の「日本及日本人」に掲載しました。

従って、林若樹が取得する以前の「本城惣右衛門覚書」経緯は不明です。

完全なる創作であったり、成立年代がもっと後代であったりする可能性は大いにありますが、以下、「本城惣右衛門覚書」が本物であったと仮定して、書いていきます。

本能寺の変は「本城惣右衛門覚書」を書く58年前の出来事。当事者はもう居ない

まず、本能寺の変(天正10年 1582年)は、本城右惣衛門が「本城惣右衛門覚書」を書く58年前の出来事です。

58年前の出来事についてですが、さすがにそこまで古くなると、当事者はもう居ません。

58年前に赤子だった人でさえ58歳の還暦目前ですし、20歳程度の若武者だったとしても78歳です。40歳程度の士官レベルだと98歳になり、死んでいます。

つまり、実体験として本能寺の変を知る人間のほとんどすべては既に死んでいます。

しかも、「本城惣右衛門覚書」は、本城惣右衛門が自分の親族に書いて残すだけであり、広く公表するわけではありませんから、58年前の出来事を知るほかの生き残りたちが居たとしても、「いや、それは違うぞ!」などと反証されることもありません。

悪く言ってしまえば、だれも反証できないので言いたい放題が可能です。話を盛ったり、意図的に嘘をついたり、記憶違いがあったり、自分の功績を大きく書いたとしても、それが合っているのか間違っているのか、だれにもわかりません。

一方で、親族に残すためだけに書いたので、他者をはばかることなく記述も可能です。

80歳超のお爺さんの記憶・記述内容の信ぴょう性

天正10年(1582年)の本能寺の変で槍働きができたとすると、本城惣右衛門は本能寺の変当時、少なくとも18歳だろうと推定できます。

本城惣右衛門が「本城惣右衛門覚書」を著したとされる寛永17年(1640年)は本能寺の変の58年後ですから、18歳+58年=76歳。

本城惣右衛門はどんなに若く見積もっても76歳程度であったことになります。

また、「本城惣右衛門覚書」にて、織田信長による丹波攻略(天正3年 1575年開始)で戦ったことや、それ以前は野武士のようなことをしていることなど、また自分で「八十九十までもいき申候」と書いていることから、本城惣右衛門は本能寺の変当時30歳程度であり、「本城惣右衛門覚書」を著したときにはすでに80歳を超えて、90歳近い年齢であったのだろうと推定できます。

現在日本では、認知症について次の通り言われています。

認知症の有病率は年齢とともに急峻に高まることが知られています。現在、65歳以上の約16%が認知症であると推計されていますが、80歳代の後半であれば男性の35%、女性の44%、95歳を過ぎると男性の51%、女性の84%が認知症であることが明らかにされています。わが国は世界一の長寿国であり、認知症と共に生きる高齢者の人口は今後も増加し、2025年には高齢者の5人に1人、国民の17人に1人が認知症になるものと予測されています。

引用元:https://www.tmghig.jp/research/topics/201703/

認知症とまではいかなくても、祖父母や父母等、身近な高齢者の記憶違いは皆経験のあることだと思います。

現代の高齢者事情を単純に当てはめることはできませんが、80歳超で90歳近い本城惣右衛門が58年前の出来事を思い出して著した覚書の信ぴょう性は、本人が本気で事実だけを取り出したつもりだとしても、疑ってかかるべきだと思います。

やたらと臨場感あふれる「本城惣右衛門覚書」

「本城惣右衛門覚書」は、本城惣右衛門の視点から記されており、客観的視点(いわゆる神の目)が無いことから、信用に値する、という評価があります。

ただし、この程度の主観的記述は物語や空想でも可能ですし、歴史の通説をはみ出さない程度かつ、ウソっぽい自慢話と取られない程度の捜索である可能性は否定できません。

徳川家康の上洛を知っていた本城惣右衛門

本城惣右衛門は、丹波衆として明智光秀の手勢の中に居ましたが、老いの坂を越え、山崎から京へと向かうときに疑問を持ちます。(山さきのかたへとこゝろざし候へバ、 おもひのほか、京へと申し候。)

「はて?備中の太閤(羽柴秀吉)へ加勢に行くのではなかったのか?」

備中と京では真逆ですから、そういう疑問は持つでしょう。そこで、

「ちょうど徳川家康が上洛していたから、これを討つのか」(我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、 いゑやすさまとばかり存候。)

と思った、と書いています。

確かに、徳川家康は5月に安土城へ上り、織田信長と明智光秀の饗応をうけ、その後堺に居ました。そしてまさに上洛するというタイミングでした。

が、本城惣右衛門レベルの武士が、徳川家康の動向を知っているものでしょうか?

「上様」が織田信長だとは知らなかった本城惣右衛門

うへさましろききる物めし候ハん由、申候へ共、 のぶながさまとハ不存候。

と書いてある通り、「上様」が織田信長だとは知らなかった、と本城惣右衛門は書いています。

江戸期から、上様は征夷大将軍を指す言葉として定着しましたが、戦国時代も室町将軍や天下人織田信長を指す言葉として使われています。

京へ攻め上っておきながら、「上様」が信長を指すとは思わなかった、と言うのは無理があると思います。

本能寺に我らより先に侵入したというものがいたらそれはみな嘘だ

ほんのふ寺へ我等ゟさきへはい入候などゝいふ人候ハゞ、 それハミなうそにて候ハん、と存候。

自分と違うことをいう人が居たら、それは皆ウソだ!と言い切る本城惣右衛門。

本能寺の変から58年経っていながら、90歳近い老人がこのような啖呵を切るのはいったいどういうわけなのでしょうか。

本能寺の変に関する作り話が当時横行していたのでしょうか。

「本城惣右衛門覚書」の評価 信ぴょう性 低

自分の目で見た範囲の事しか書かれていなく、彼が知らなかったことは明瞭に知らなかったと書かれている。個人の体験と考えて差し支えない、と鈴木眞哉氏、藤本正行氏は著書「信長は謀略で殺されたのか」の中でそのように書き、この記述を信頼していますが、そのレベルの書き分け(主人公の主観)であれば現代の小説家、漫画家、映画やドラマの脚本家でも可能です。

また、文体・書体が寛永年間の物と考えられるとのことですが、では寛永年間と正保年間は違うのか、江戸期のどの時期から明瞭に文体書体に違いが出てくると言えるのか、また、寛永年間にかかれたものだとして、それが創作物でない証明にはならないと考えます。

一部の歴史愛好家が評価する本城惣右衛門覚書ですが、

・林若樹以前の経緯が不明(誰から入手したかも不明)

・林若樹入手の当月に「日本及日本人」に掲載(国粋的な内容)

・本城惣右衛門なる人物の実在が不明

・本城惣右衛門が90歳近くなって著したとされる

・58年前の出来事を著している

・記述内容に怪しい点がある(上様と信長、家康の上洛)

以上の点から、本城惣右衛門覚書の信ぴょう性は低いと判断します。

一武士として臨場感のある内容を楽しめるものの、記述内容を全面的に信頼できるレベルではありません。

「本城惣右衛門覚書」の本能寺の変 抜粋

あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、 ほんのふ寺へ我等ゟさきへはい入候などゝいふ人候ハゞ、 それハミなうそにて候ハん、と存候。
其ゆへハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、 ゆめともしり不申候。
其折ふし、たいこさまびつちうニ、 てるもと殿御とり相ニて御入候。 それへ、すけニ、あけちこし申候由申候。
山さきのかたへとこゝろざし候へバ、 おもひのほか、京へと申し候。 我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、 いゑやすさまとばかり存候。 ほんのふ寺といふところもしり不申候。
人じゅの中より、馬のり二人いで申候。 たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、 こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、 我等其あとニつき、かたはらまちへ入申候。
それ二人ハきたのかたへこし申候。 我等ハミなみほりぎわへ、ひがしむきニ参候。
ほん道へ出申候、其はしのきわニ、人一人い申候を、 其まゝ我等くびとり申候。
それゟ内へ入候へバ、もんハひらいて、 ねずミほどなる物なく候つる。 其くびもち候て、内へ入申候。
さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたゟはい入、 くびハうちすてと申候まゝ、だうの下へなげ入、 をもてへはいり候へバ、ひろまニも一人も人なく候。 かやばかりつり候て、人なく候つる。
くりのかたゟ、さげがミいたし、しろききたる物き候て、 我等女一人とらへ申候へバ、さむらいハ一人もなく候。 うへさましろききる物めし候ハん由、申候へ共、 のぶながさまとハ不存候。 其女、さいとう蔵介殿へわたし申候。
御ほうこうの衆ハはかま・かたぎぬにて、 もゝだちとり、二三人だうのうちへ入申候。
そこにてくび又一ツとり申候。 其物ハ、一人おくのまより出、おびもいたし不申、 刀ぬき、あさぎかたびらにて出申候。 其折ふしハ、もはや人かず入申候。 それヲミ、くずれ申し候。 我等ハかやつり申候かげへはいり候へバ、 かの物いで、すぎ候まゝ、うしろゟきり申候。
其時、共ニくび以上二ツとり申し候。 ほうびとして、やりくれ被申候。
のゝ口ざい太郎坊ニい申候。
— 本城惣右衛門覚書

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