織田信長の壷〜明智光秀と本能寺の謎〜

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本能寺の変の謎③~通説に見る本能寺の変・明智光秀を取り巻く状況

time 2020/05/07

本能寺の変 明智光秀野望説

明智光秀には、織田信長に代わり天下を取る野望があった・・・。

という説である。

野望説と言われる。

前回紹介した怨恨説は、その根拠となる怨恨のエピソードのそれぞれが信憑性の乏しい後世の作り話であることを述べた。

そして、怨恨説の支持が失われていく中で、野望説が支持されている。

では、なぜ織田信長を討ったのか、という動機を、明智光秀の野望に求めるのがこの説である。

本能寺の変直前の織田家をめぐる状況

当時、織田信長によって、天下はほぼ統一されたといってよかった。

周囲の状況を言えば、

関東の北条家は誼を通じていたし、東海道の徳川家は従属と言っていい状態にあった。

越後の上杉家は北陸を担当していた柴田勝家に攻められ、また、北越後の新発田重家に背かれ、風前の灯火。

中国の毛利家は中国を担当していた羽柴秀吉と対峙していて動けず、四国の長曾我部家は織田家による四国征伐を避けるため、領土割譲を視野に交渉を行っていた。

九州の竜造寺、大友、島津とも、織田家と事を構える姿勢はなかった。

朝廷に対しても、織田信長は征夷大将軍就任を打診されていたし、正親町天皇の譲位も行う予定であった。

本能寺の変直前の明智光秀の状況

まさに、織田信長のもとで、天下静謐が実現しようとしていた。

そのタイミングで、明智光秀は織田信長、後継者織田信忠、天下所司代村井貞勝を一挙に葬り去った。

実際には、その天下取りは失敗してしまうが、成算はあった

天正十年六月二日色分け地図

変の時点で、明智光秀は近江国志賀群、山城国一部、丹波国一国を支配しており、近世石高36万石を実質統治していた。そして、他国一国と同じくらいの収入を持つといわれる旧山門領を支配していた。

さらには、丹波国26万石の細川藤孝、一色義定、大和45万石の筒井順慶、摂津36万石の池田恒興、高山右近、中川瀬兵衛を与力として従える軍団長クラス「近畿管領」であった。

また、その家臣には室町幕府政所執事を代々務めた伊勢氏の旧臣を抱え、朝廷および京の政治については、織田信長の上洛直後から、村井貞勝が天下所司代に任じられてからも、天正三年夏ごろまで、連名で携わっていたほど精通している。

直轄支配36万石、与力衆を合わせれば、京周辺に140万石におよぶ支配領域を持ち、1万石=250人の動員兵力と考えれば、35,000人の動員兵力を有していたことになる。しかも、北陸の柴田勝家や、中国の羽柴秀吉のように、当面の敵さえいなかった

明智光秀は、織田信長、そして後継者織田信忠に次いで、天下に最も近かった。

ざっくりと見ていけば

織田信長は近江の一部(安土)40万石

織田信忠は美濃、尾張110万石、与力として甲斐、信濃60万石の計160万石(地図赤)

羽柴秀吉は本領近江長浜12万石、与力として播磨、備前、美作、但馬、因幡、伯耆、備中の一部120万石の計130万石
対する毛利輝元は長門、周防、安芸、石見、出雲、備後、備中の一部計110万石(地図橙)

柴田勝家は本領越前北庄49万石、与力として加賀、能登、越中の一部計120~130万石(地図紫)
対する上杉景勝は越後、越中の一部40万石

丹羽長秀は近江佐和山と若狭遠敷郡20万石と与力として若狭6万石の計26万石

織田信雄は伊勢、伊賀60万石(地図桃)

徳川家康は三河、遠江、駿河の70万石(地図緑)

滝川一益は上野と信濃の一部40万石(地図黄緑)

関東の北条氏は90万石

織田信孝は本領北伊勢に丹羽長秀、和泉の蜂屋頼孝、近江大溝の津田信澄を従え14000人の軍兵を率い四国渡海準備中。(地図黄)
対する長曾我部元親は土佐を中心に30万石

繰り返すが、当面の敵を持たず、京周辺に140万石の支配領域を持っていた明智光秀(地図青)は、最も天下に近かった。

明智光秀が本能寺を囲んだ軍勢は通説では13000人と言われるが、藤本正行氏が「本能寺の変 ~信長の油断・光秀の殺意~」で指摘するように、根拠が薄い。

川角太閤記は13000人、フロイスの報告は3万人、惟任退治記は2万余騎などと書かれている。

襲撃時の細かい論点は措くとして、

明智光秀は本能寺の変にて、織田信長、後継者織田信忠、天下所司代村井貞勝を始末した。

これによって、
①織田家全体に号令をかけることができる人物(織田信長・棟梁織田信忠)を消し去り、
②直轄110万石、与力を合わせれば160万石の動員力のある軍隊「織田信忠軍」を解体せしめ、
③山城一国を支配し、
④朝廷外交を一手に担った。

この時点で軍団の大なるものとしては、
羽柴秀吉の中国征伐軍は備中高松城を攻めつつ毛利家と対峙していたため動けず、
柴田勝家の越後征伐軍も越中魚津城を攻め上杉と戦っており動けず、
四国征伐軍は既に渡海していた三好笑岩たちは逃散し、渡海前であった神戸信孝、丹羽長秀、津田信澄、蜂屋頼孝らは兵が離散し、明智光秀との内通を疑われた津田信澄が殺され、
徳川家康は側近とともに堺にあるため領国に戻るまでは軍勢を動かせなかった。

まさに、明智光秀の独壇場であった

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