織田信長の壷〜明智光秀と本能寺の謎〜

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本能寺の変の謎~通説に見る本能寺の変~

time 2020/05/07

本能寺の変は、いまだに多くの人々をひきつける魅力を持っている。

ここでは、本能寺の変の通説を確認し、次の記事以降、謎とされる点にスポットを当てていきたい。

時系列で書くとわかりづらくなるので、織田信長を赤、明智光秀を青、朝廷を黄色、羽柴秀吉を緑、徳川家康を紫で便宜的に色分けする。

本能寺の変の直前までの経緯として、

天正十年
三月十一日 織田家の宿敵であった武田家滅亡
四月二十一日 信長、安土城へ帰還(甲斐遠征から、徳川家康領である駿河、遠江、三河を遊山、尾張、美濃を通り帰還)
四月二十三日 勧修寺晴豊 勅使として安土へ下向。
四月二十五日 朝廷、織田信長を関白、太政大臣、征夷大将軍のいずれかに推挙することを決定。
五月四日 朝廷より勅使が安土へ下向。
五月六日 織田信長、勅使に面謁。
五月十一日 織田信孝、四国征伐のため摂津住吉に到着。渡海準備を行う
五月十四日 明智光秀、在荘を命じられる。
五月十五日 徳川家康、穴山梅雪、安土へ到着明智光秀が饗応役を命じられる。羽柴秀吉より応援要請来る。
五月十七日 明智光秀が饗応役を解任される。羽柴秀吉応援のため、居城坂本城に帰還。
五月二一日 徳川家康、上洛
五月二十六日 明智光秀、居城である丹波亀山城に入城
五月二十七日 明智光秀、愛宕山に参詣し、参籠
五月二十八日 明智光秀、愛宕山威徳院西坊にて、連歌を開催(愛宕百韻)
五月二十九日 織田信長、わずかな供回りを連れ、上洛。本能寺に宿
六月一日 織田信長、公家と面会、本能寺にて茶会を開催、夜信忠と面会
茶屋四郎次郎、上洛
明智光秀、軍勢を率いて、丹波亀山城から出陣。野條で勢揃い。重臣に謀反の意を告げる
明智光秀、老の坂より沓掛にいたり、全軍小休止
六月二日 明智光秀、桂川に至り、戦闘態勢に入る。「敵は本能寺にあり」
明智光秀、本能寺を囲み、攻撃。
織田信長、死亡。
天下所司代村井貞勝、異変を知り、妙覚寺の織田信忠のもとへ向かう。
織田信忠、異変を知り、二条城へと移る
明智光秀、二条城を囲む
誠仁親王と公家衆、二条城から退去し、御所へ移動
明智光秀、二条城を攻撃
織田信忠、死亡
徳川家康、上洛途上の飯盛山で茶屋四郎次郎と会い、上洛をあきらめ本拠地岡崎を目指して帰還。<伊賀越え>

簡単に書くと、このようになる。

①織田信長は、わずかな供回りを連れて、上洛した
②明智光秀は軍勢を連れて丹波亀山を出発京に向かい、本能寺にいる織田信長を殺した

本能寺の変は、事実としてはこれだけであった。

そして、その事実を補足するために、
「明智光秀は中国の羽柴秀吉の援護を命じられていた」
と、明智光秀が軍勢を集めることができた理由が説明され、通説として支持されている。信長公記はじめ、惟任退治記や明智軍記にはそう記されている。
「中国攻めの援護」以外の内容では、本城惣右衛門覚書くらいだろう。

では、なぜ明智光秀が織田信長を殺すに至ったのか、という理由については、通説では怨恨説が支持されていた。

次は、通説とされる明智光秀単独説(怨恨・野望説)を考えてみたい。

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