織田信長の壷〜明智光秀と本能寺の謎〜

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明智光秀の実像⑥~明智光秀の享年は55歳だったのか~

time 2018/06/18

明智光秀の年齢は不明であり、一般的には享年55歳といわれている。

が、確かなことははっきりしない。

享年を出すは、生まれた年と、死んだ年がわかることが必要だ。

明智光秀はいつ死んだか

まず、明智光秀の死んだ年。

明智光秀が死んだのは、明智光秀=南光坊天海説をとらない限り、天正十年(1582年)六月十三日の山崎の戦いの後である。

死んだ年は、はっきりしている。

明智光秀はいつ生まれたか

だが、生年がはっきりしない。

それもそのはずで、今まで書いてきたように、明智光秀は、父親が誰なのか、出身がどこなのか、永禄十二年(1569年)四月十四日付賀茂庄中宛ての書状に名前が出てくるまで、何をしていたのか確かなことはわかっていない。すべてが謎なのだ。

だから、生年さえも、謎に包まれている。

明智光秀享年55歳説の由来

そような状況の中で、明智光秀の享年が55歳といわれている理由は、故・高柳光寿氏をして「誤謬充満の悪書」と言わしめた「明智軍記」

順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元

という辞世があるからだ。(もちろんこの辞世も、光秀の死から100年後に成立した明智軍記に出てくるものであり、信用できない)

55年の夢と言っているのだから、55歳で死んだはずだ。だから明智光秀の享年は55歳。

そして、当時は数え年だから、天正十年(1582年)から54を引き、生年を享禄元年(1528年)と推定している。

つまり、明智光秀の生年が享禄元年(1528年)であるという説は、明智軍記に拠っている。そして、明智軍記をベースにしている細川家の「綿考輯録」も、この説を採っている。

これが、明智光秀の生年の通説である。

この辞世も創作であるため、本当に享年が55歳だったかはわからない。根拠としては、かなり弱い。

また、もう一説として享年67歳説(生年永正十二年(1515年))がある。これは「当代記」に拠るが、あまり支持されていない。

だから、明智光秀の生年についても確かなことはわからないが、

①享禄元年(1528年)生まれ(享年55歳)説 通説
②永正十二年(1515年)生まれ(享年67歳)説
③不明(①・②以外)

の3つから考えてみる。

織田信長家臣団と明智光秀の年齢比較

まずは、織田信長の主だった家来たちと比べてみる。

選択した面々としては、いわゆる方面軍司令官クラス、一国支配クラス、天下所司代であり、織田家中のポジションにおいて、明智光秀と並べる顔ぶれである。

織田信長 天文三年(1534年)生まれ 享年49歳 変時49歳)横死
羽柴秀吉 天文六年(1537年)生まれ 享年62歳 変時46歳) 中国方面軍司令官
柴田勝家 大永二年?(1522年)生まれ 享年62歳 変事時61歳?)横死 北陸方面軍司令官
丹羽長秀 天文四年(1535年)生まれ 享年51歳 変時48歳)病死 四国方面軍副司令官
滝川一益 大永五年(1525年)生まれ 享年62歳 変時58歳) 関東方面軍司令官
徳川家康 天文十一年(1543年)生まれ 享年74歳 変時40歳) 東海道方面軍司令官・同盟者
塙直政 生年不詳 戦死 近畿方面軍司令官
簗田広正 生没年不詳
村井貞勝 永正十七年以前?(1520年以前?) 享年63歳以上? 変時63歳以上?)横死 天下所司代
佐久間信盛 享禄元年?(1528年?) 享年55歳? 自刃 近畿方面軍司令官 追放
蜂屋頼隆 天文三年(1534年)生まれ? 享年56歳? 変時49歳) 和泉一国支配
細川藤孝 天文三年(1534年)生まれ 享年77歳 変時49歳) 丹波半国支配
荒木村重 天文四年(1535年)生まれ 享年52歳 変時48歳) 摂津一国支配・謀反のち追放
池田恒興 天文五年(1536年)生まれ 享年49歳 戦死 変時47歳) 摂津一部(荒木村重の遺領)支配
川尻秀隆 大永七年(1527年)生まれ 享年55歳 戦死 変時55歳) 甲斐支配
森長可 永禄元年(1558年)生まれ 享年27歳 戦死 変時25歳) 信濃支配

変時○○歳というのは、本能寺の変発生時、すなわち1582年時の年齢である。

これを見ると、織田信長の晩年、その周囲の重役クラスは、信長の年齢である49歳を中心に、プラスマイナス5歳前後の幅だったことが見て取れる。(森長可は滋賀の陣で戦死した森可成の子。存命なら変時59歳)

織田信長が35歳で上洛をしたときに、30歳から40歳前後の働き盛りだった家臣たちが、そのまま歳をとった、ということだろう。

明智軍記の明智光秀享年55歳説は常識的

したがって、信頼性の乏しい明智軍記によるものではあるが、①の明智光秀の享年が55歳説は、不自然ではない。というより、この信長の重臣たちの年齢のボリュームゾーンに入っているため、享年55歳説はありえそうな話である

年齢の幅で言えば、羽柴秀吉より一つ若い45歳から、滝川一益より3つ若い55歳の範囲内あれば、おかしくはない。

だから、①の享年55歳説は、違和感なく受け入れられる。はっきりした証拠はないが、まぁそのくらいの年齢と言われればそうだったかもしれない。故高柳光寿氏も、

光秀の年齢はわからない。「明智軍記」に光秀の辞世というのを伝えているが、その中に「五十五年ノ夢」という句がある。だから五十五歳ということに同書はしているのである。けれどもこの書は悪書であり、辞世と伝えるものも全く信用できない。従がって光秀が五十五歳であったということも信用ができないけれども、しかし何だかそのくらいではなかったかというような気もする年齢である。そして光秀の年齢はこの書以外には全く所伝がない。

出典 「明智光秀」高柳光寿 著

としている。はっきり55歳とするほどの根拠はないが、まぁそれくらいかもしれない。明智軍記の作者も、明智光秀の同僚である豊臣秀吉や滝川一益の年齢を考えて、このように設定したのかもしれない。「五十五年ノ夢」もゾロ目で語呂が良い。

当代記の明智光秀享年67歳説は違和感がある

②の明智光秀の享年が67歳説は、一転して信長の重臣たちの中で、突出して明智光秀が年がさになる

織田家の長老格の柴田勝家や、ルイス・フロイスに「老人」と言われた村井貞勝より年長であるというのは、不自然かもしれない。

なにより、村井貞勝を老人呼ばわりしているのだから、それと同じくらいの年齢であれば、ルイス・フロイスが織田信長の重臣の中で一番高齢の明智光秀を老人と言っていないことに違和感がある。

フロイスにしてみれば、織田信長の家臣たちの中で村井貞勝だけが突出して高齢であるため「老人」と評したが、それ以外の織田信長の重臣たちは違和感がない年齢層で構成されていたのではなかろうか。

織田信長家臣団と明智光秀の子供を授かった年齢比較

次は、先ほどの重臣たちの、子供の年齢を考えてみる。
織田信長 嫡子・信忠 弘治元(1555年)生まれ 信長22歳時 変時28歳)横死
羽柴秀吉 石松丸秀勝? 天正元年(1572年)生まれ? 秀吉36歳時
柴田勝家 実子なし 養子
丹羽長秀 嫡子・長重 元亀二年(1571年)生まれ 長秀37歳時 変時11歳)病死
滝川一益 長男・一忠 天文二十二年(1553年)生まれ 一益29歳時 変時30歳)
徳川家康 長男・信康 永禄二年(1559年)生まれ 家康17歳時
村井貞勝 嫡子・貞成 生年不詳 横死
佐久間信盛 嫡子・信栄 弘治二年(1556年)生まれ 信盛29歳時? 変時27歳)
蜂屋頼隆 実子無し
細川藤孝 嫡子・忠興 永禄六年(1563年)生まれ 藤孝30歳時 変時20歳)
荒木村重 嫡子・村次 永禄四年(1561年)生まれ? 村重27歳時 変時22歳)
池田恒興 嫡子・元助 天文五年(1559年)生まれ? 恒興24歳時) 変時24歳)
川尻秀隆 嫡子・秀長 生年不詳
森長可 嫡子無し

もちろん、織田家の譜代組と中途参入組の違いがあるのと、子供のできやすさ(羽柴秀吉のように)があるので一概には言えない。が、おおむね30歳くらいで、長男を授かっていることが見て取れる。

で、本題に戻るが、明智光秀の嫡男、十五郎光慶は、本能寺の変時(1582年)14歳だったといわれている。

生年は永禄十二年(1569年)。

細川藤孝らが担いだ足利義秋を、信長の援助のもとで室町幕府第15代将軍にすることができた翌年である。この年初には将軍を狙って上洛してきた三好勢を、本圀寺で切り防いでいる。

通説である①享禄元年(1528年)生まれ(享年55歳)説では、明智光慶は、明智光秀が42歳の時に初めて授かった男児である、ということにされている。

これは、いささか遅すぎやしまいか。

ましてや、②永正十二年(1515年)生まれ(享年67歳)説では、55歳の時に初めて授かった男児である、ということになる。

また、細川忠興に嫁したガラシャは永禄6年(1563年)生まれとされる。通説である①享禄元年(1528年)生まれ(享年55歳)説なら明智光秀36歳の時の娘、②永正十二年(1515年)生まれ(享年67歳)説では明智光秀49歳の時の娘となる。

もちろん、それらが正しい可能性はある。

が、常識的に見て、違和感を覚えないだろうか

広く知られるように、豊臣秀吉は、子ができにくい体質で、生殖能力が欠けていた。

先述の石勝丸秀勝は早世したとされるが、その存在自体も疑問視されているし、権力者となる前も、なった後も、多くの側室を置いたが、男児ができたのは淀の方との間に生まれた国松(棄・早世)と豊臣秀頼だけだ。

が、明智光秀は、故・高柳光寿氏をして「誤謬充満の悪書」と言わしめた「明智軍記」では三男四女、「明智系図」(鈴木叢書)には側室の子も合わせて六男七女があったとされる。とても明智光秀の生殖能力に難があったとは思えない。

また、ルイス・フロイスの「日本史」の中で、山崎の戦後の坂本城の落城に際し、

その時、明智の二子が死んだが、非常に上品な子供たちで、ヨーロッパの王子を思わせるほどであったと言われ、長男は十三歳であった。

引用元:完訳フロイス日本史〈3〉安土城と本能寺の変―織田信長篇(3) (中公文庫)176項より引用)

との記述がある。

明智光秀の嫡男光慶は山崎の戦いで死んだといわれるので、この二子とは、坂本城に残っていた次男と三男のことかもしれない。

また、女子のうち、一人は信長の甥にあたる織田信澄、一人は荒木村次、一人は家臣、そしてもう一人は細川忠興の嫁いだといわれるが、細川忠興に嫁いだ珠は、洗礼名のガラシャとして、関ヶ原の戦いの直前に大阪屋敷で自害したことがあまりに有名であり、また、ガラシャの血は肥後熊本藩につながっていく。

話がそれたが、言いたいのは、明智光秀には明智光慶以外にも多くの子供がいたということであり、したがって、羽柴秀吉のように生殖能力に不具があるとは考えづらい、ということだ。

ここでは素直に考えて、ほかの織田家の重臣たちのように、子供を授かったのが30歳と仮定しよう。

すると、明智光秀の生年は天文九年(1540年)となる。

織田信長より6つ若く、羽柴秀吉より3つ若く、徳川家康より3つ年上だ。

織田家の重臣たちの中でも若い部類となり、年齢的に無理がない。

そして、本能寺の変の時の年齢が、43歳。

もちろん、十五郎光慶を授かったのがちょうど30歳ではないだろうから、数年前後するだろうが、43歳前後で本能寺を起こしたというのは、十分にあり得た年齢ではなかろうか。46歳の羽柴秀吉と大して変わらないし、羽柴秀吉より数年若かったとしても、織田信長は明智光秀のほうをより高く評価していた。

長くなってしまったので、次はさらに、明智光秀の生年について考えてみたい。

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