織田信長の壷〜明智光秀と本能寺の謎〜

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明智光秀の実像⑤~出自の諸説・進士信周の次男・鍛治冬広の次男・美濃明智の御門重兵衛~

time 2018/06/15

明智光秀の、通説「土岐明智氏説」と、「明智光秀=細川藤孝の中間説」を観てきたが、ここではそれ以外の出自を紹介する。

明智光秀=進士信周の次男説「明智氏一族宮城家相伝系図書」

「明智氏一族宮城家相伝系図書」によれば、進士信周の次男として、石津郡多羅で生まれた、とされる。

結局は後世に何等かの意図があって作成された系図を信じるかどうか、の話になってしまうのだが、進士氏は幕府奉公衆にも名が見え、進士晴舎と子の進士藤延が永禄の変で死亡している。

永禄の変
永禄8年(1565年)5月19日に発生した事件。 三好義継、三好三人衆、松永久通らにより、二条御所にて将軍足利義輝が弑殺された。この際、多数の幕臣が死亡している。

また、明智光秀の家臣に進士作左衛門というものも確認できる。

また、「明智系図」にも多羅城の生まれで、母は武田義統の妹とあるので、多羅が共通する。

「明智光秀=進士信周の次男」説では、明智光秀は根っからの土岐明智氏ではなく、美濃の明智(可児郡・恵那郡)にも縁がないということになる。

ここから飛躍して進士藤延が明智光秀になったとする説もあるが、それはさすがに難しいと思う。

進士藤延=明智光秀説が説得力を持たない理由

進士藤延は幕府奉公衆として、永禄の変で将軍足利義輝とともに討死した進士晴舎の子という。一般的には、藤延もこの時討死したものだと考えられている。

進士藤延=明智光秀説では、永禄の変を生き残り、明智十兵衛尉光秀と改名し、足軽衆として足利義昭に仕えた、となる。

ただし、進士藤延=明智光秀説は

・後世に誰かが何らかの意図を持って編纂・作成した系図「宮城系図」を頼りにしていること。

・足軽衆明智十兵衛尉になることにより、奉公衆である進士氏の藤延が、足軽衆に格下げになっていること。

・「藤延」の「藤」は足利義輝(前の名を義藤)から賜っているにもかかわらず、その「藤」の字を捨てて、「光秀」と改名していること。明智の名跡を継ぐなら「明智藤延」で足りる。「藤」は細川藤孝、三渕藤秀、一色藤長、筒井藤政(順慶)などがいる。

進士藤延は永禄の変で父進士晴舎とともに死亡したと思われること。

から、新奇性はあるが、こじつけ感が否めない。

参考リンク:明智光秀の前半生は「進士藤延」?改姓へ信長の戦略 読売オンライン

進士氏の嫡流ではないだれかが明智光秀というなら可能性あり

進士藤延=明智光秀というのは難しいが、進士信周の子や、進士氏の嫡流ではないだれかが、永禄の変で死なずに生き残り、流浪の足利義秋に仕え、絶えて久しい明智氏を名乗って足軽衆明智十兵衛尉となったのだとすれば、そこに違和感はない。ただ、進士氏でなくても成り立ってしまうが。

明智光秀=鍛治冬広の次男説「若州観跡禄」

「若州観跡禄」によれば、若狭小浜の鍛治冬広の次男であったという。

幼いころから鍛治職を嫌い、兵法を好み、近江に赴いて六角氏に仕え、明智十兵衛と名乗った。その後六角家の使者として織田家に参上したところ、織田信長がこれをたいそう気に入り…となる。

この説で面白いのは鍛治の次男であること(士分ではなく職人)だ。どこか、百姓だの連雀だの言われる羽柴秀吉に通じるものがある。かなり低い身分から一大出世したことになる。

六角氏に仕えたというのはどうだろう。六角氏と織田信長の交渉はうまく行かなかったので、そこで織田信長に見いだされたというよりは、足利義昭は一時六角氏を頼ったので、この時に義昭ないし細川藤孝に従ったのかもしれない。

明智光秀=鍛治冬広の次男説では明智光秀は根っからの土岐明智氏ではなく、美濃の明智(可児郡・恵那郡)にも縁がないどころか、美濃国にも縁がない、どころか、たいそう低い身分の出身ということになる。

明智光秀=美濃明智の御門重兵衛説「塩尻」~

天野信景の「塩尻」によれば、美濃の明智から御門重兵衛というものが、使者として織田家に参上した時に、その器量にほれ込んだ信長が召し抱え、明智重兵衛と改名させ…というものだ。

明智光秀=美濃明智の御門重兵衛説では、明智光秀は美濃の明智出身であること、本姓は御門であること(つまり土岐明智氏ではない)となる。

この場合、足利義昭の側近でもあったことの説明が難しくなる。

通説 明智光秀=美濃明智城の明智光綱の子 に無理がある

これだけの説がでるほど、明智光秀の出自には謎がある。父や職業、半生に不明点が多い豊臣秀吉が「尾張中々村出身の百姓」で一致しているような、統一した見解が明智光秀にはない

そもそも、通説とされる明智光秀=美濃明智城の明智光綱の子説に弱点が多い。

・父親の名が不明「光綱」「光隆」「光綱」

・父親、叔父、祖父の実在が資料上確認できない

・美濃明智城の存在が不明

・恵那郡明智は遠山姓明智氏の領地である(土岐明智氏ではないが、奉公衆の一つ)

・可児郡明智は土岐明智氏の領地ではない(石清水八幡宮領)

・土岐明智氏は光秀登場の60年前に歴史から消えている

ことから、武家でも嫡流を継げない次男や、鍛冶の息子といったどこの馬の骨ともわからない男が、戦国の風雲の中で、絶えて久しい明智氏を名乗ったということも十分考えられる。

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