織田信長の壷〜明智光秀と本能寺の謎〜

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明智光秀の実像④~明智光秀は細川氏の中間あがりか~

time 2018/06/14

明智光秀は、細川氏の中間である。

との説を私が最初に目にしたのは、明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」だった。

それまでは「明智光秀は細川氏の中間という身分だった」という説に出会ったことがなかったが、調べてみると沢山出てくる。

前回までのように「土岐明智氏の嫡流であり、美濃を出た後は越前朝倉氏に仕えた」という通説の根拠は脆弱であるため、明智光秀のルーツは不明であり、どのような説も成立しうる。

そのため、「明智光秀は細川藤孝の中間であった」説も、相当の説得力を持っている。

明智光秀は細川藤孝の中間・卑しい歩卒・徒の者

同時代を生きる多門院英俊の多門院日記

興福寺多門院の院主、英俊が書いたとされる「多門院日記」と、宣教師ルイス・フロイスの「日本史」には「明智光秀が細川家の中間であった」と記載されている。

中間とは足軽の下、小物より上で、主人の従者として付き従い、戦時には戦い、平時は雑用をこなす身分を言う。出自は農民が多く、足軽に取り立てらることもあった。なお、豊臣秀吉は小物から仕え、小物頭、ついで足軽になったとされる。

多門院英俊は1518年~1596年に存命だった人物であり、大和の守護並みの勢威を誇った奈良興福寺の多門院主という立場の人間だ。

多門院日記を受け継いで1534年~1596年まで60年間にわたり著述した。

織田信長の上洛が1568年、本能寺の変が1582年だから、まさに同時代を生きた人間である。

人物の実在性と地位という確かさ、同時代性から見ても、明智光秀に関する多門院英俊の記述には説得力があるし、わざわざウソを書く理由もない。

老人雑話

また、「老人雑話」では「明智光秀は細川藤孝の家来だった」と書いてあり、上と矛盾しない。

「老人雑話」は、伊藤坦庵(1623年~1708年)が、友人であった医師の江村専斎(1565年~1664年)の若かりし日の話を聞いて著述したものとされる。したがって本能寺の変より60年以上過ぎて書かれたものである。

本能寺の変当時、江村専斎が17歳、それを80歳くらいの老人になった時に60年以上前をさかのぼって語るわけなので、鵜呑みにはできないが、「明智光秀は細川藤孝の家来だった」という説が残っていることは特筆に値する。江村専斉が生きた17世紀初頭は、「明智光秀が細川藤孝の家来だった」という説は常識だったのかもしれない。

宣教師ルイス・フロイス「イエズス会総長宛日本年報」

宣教師ルイス・フロイス(1532年~1597年)は「イエズス会総長宛日本年報」において「信長の政庁に、名を明智といい、元は低い身分の人物がいた。すなわち、卑しい家柄の出であり、信長の治世の当初、或る貴族に仕えていたが」と報告しており、「日本史」では「彼(明智光秀)はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、公方様の邸の一貴人、兵部大夫(細川藤孝)と称する人に奉仕していたのであるが」と言っている。

ルイス・フロイスも同時代を生きた人間であり、イエズス会による布教のために将軍足利義昭、天下人織田信長の動向や家来を調査・記録していた。ここでウソをつく必要はない。

その他の記録(江戸期の「籾井家日記」幕末の「校合雑記」)

江戸時代に成立した野史「籾井家日記」には「明智十兵衛という族姓も知らぬものを(略)惟任日向守と名乗らせ」と書いてある。

無論、明智光秀の丹波攻めで滅ぼされた籾井氏や波多野氏の子孫が江戸期になって書いたものだから信じるわけにはいかないが、少なくとも、立入宗継が書いたような「美濃土岐の随分衆」という印象は全く受けない。

また、幕末に編纂された昌平黌(東京大学の前身)蔵書「校合雑記」では「明智光秀はもと細川藤孝の徒のもの」とある。

むろん、真実かどうかはわからないが、「明智光秀は細川藤孝の家臣であった」というのは一つの説を成しうる。

明智光秀が細川藤孝の中間(家臣)だと、前半生がしっくりくる

通説では、故郷美濃を追われ諸国遍歴していた明智光秀は越前朝倉氏に仕え、将軍を奉じて朝倉を頼った細川藤孝と会い、意気投合し、美濃の織田信長を頼り…となる。

だが資料を見るに、美濃に明智氏が治めた明智城は存在せず、父光綱、叔父光安の実存も証明されておらず、朝倉家に仕えた記録も乏しく、足利義昭の足軽衆に明智の名がみえる…。したがって通説は小説のようなフィクションに近い。

しかし、明智十兵衛尉こと明智光秀が、もともとからして細川藤孝の家臣(中間)であったならば、すべてはしっくりくる。

将軍足利義輝の家来として活動し、将軍が弑逆された永禄の変を生き延び、亡き将軍の弟一条院覚慶(のちの足利義昭)を援け、近江六角、若狭武田、越前朝倉、美濃織田を頼った細川藤孝と明智光秀が終始一緒に行動していたのだとすれば、ストーリーはスムーズにつながる。

永禄の変で死んだり、三好陣営(足利義栄)についたり、領地に戻ったりして幕臣が不足する中で、細川藤孝が自分の家臣である明智十兵衛尉を足利義昭の足軽衆に抜擢してもおかしくはない。幕臣の人員不足の解消に寄与するし、自派閥の強化・拡大にもつながる。なにより明智十兵衛尉は有能であった。

この「明智光秀は細川藤孝の中間」説なら、実在が疑わしい父親や、土岐明智氏が支配したことのない可児郡明智、明智光秀と織田信長室(帰蝶・斎藤道三娘)とのつながりを示す必要はない。

逆臣明智光秀が細川藤孝の家臣だと都合が悪い

明智光秀を討ち、天下を取った豊臣秀吉は「惟任退治記」で明智光秀を土岐氏ゆかりのものとした。

それは、本能寺の変の直前(五月二八日・異説有)に、明智光秀が愛宕山で詠んだ

「時は今 天下しる 五月哉」

という発句が、明智光秀の謀反の表明であるとするためだった。

そして、その意に沿うように、様々な人間が保身のために、記録を改めた。

のち、明智光秀=美濃の土岐氏とする「明智軍記」(1702年頃成立)や各種系図が成立した。それをベースに、細川家が「綿考輯録(=細川家記)」(1778年成立)を編纂し、明智光秀=美濃の土岐氏という通説ができた。

明智光秀と土岐明智氏を結びつけたのは羽柴秀吉であるが、細川藤孝の元家来では整合性が取れなかったのだろう。また、細川藤孝も息子忠興の妻であった明智たま(ガラシャ)を隔離・幽閉し、髻を切って親子ともども出家してまで明智光秀との縁を切ったほどの人間だから、逆臣明智光秀が元家臣であるとは言えず、「明智光秀は美濃の土岐明智氏であり、明智城は滅び、朝倉に仕えたが云々」としておくほうが得策であったと思われる。

土岐明智氏は1502年以降消えているし、朝倉氏も滅んでいる。明智光秀も滅び一族も死ぬか逼塞している中で、だれも否定できなかったろう。

明智光秀を倒して天下人となった豊臣秀吉にとっては、明智光秀が美濃の土岐氏でなければ都合が悪かったし、身内から大逆人を出した細川藤孝にとっても、明智光秀とかかわっていた痕跡をできるだけ消したかった。

両者の利害はそこに一致したのではなかろうか。

また「綿考輯録(=細川家記)」(1778年)には、ご丁寧に

「光秀は初め浪牢して長岡藤孝のもとに居たりしが、出奔して織田信長に仕え、明智十兵衛と号すと有」

という一書の説を引きながら、「評に及ばす」とわざわざ否定している。

明智光秀は自分を瓦礫沈淪と評していた「明智光秀家中軍法」

また、「明智光秀家中軍法」という文書が残っている。

これは、明智光秀が天正九年六月一日に作成したものとされる。そう、明智光秀が織田信長を裏切る本能寺の変のちょうど一年前だ。この時明智光秀は、故・高柳光寿氏をして近畿管領と言わしめるほどの地位に立っている。

詳しくは検索していただければ、全文意訳しているサイトもあるのだが、軍法の最後に、心得と言わんばかりに、「既に瓦礫沈淪の輩を召し出され、あまつさえ莫大な人数を預け下さる以上は」という一文がある。
瓦礫とはつまらないもの。沈淪は落ちぶれたさまを指す。したがって、「つまらない身分であり、落ちぶれていた自分を拾い上げてくださり、さらには多くの軍勢をつけていただいた以上は」となる。

これを、国を追われた美濃の随分衆の言葉とみるか、細川氏に仕えていた中間上がりの男の言葉とみるか。

通説に惑わされず、虚心坦懐に考えれば、明智光秀=細川氏の中間説は、かなりの説得力を持っている。

われわれは、百姓以下の身分から成り上がった豊臣秀吉一人を稀有の出世頭として特別視する傾向があるが、豊臣秀吉ほどでなくても、この時代に低い身分から成り上がったものは大勢いた。

明智光秀が豊臣秀吉と同じように、下賤の身から短期間とはいえ天下人となったというのも、あながちおかしくはない。

次は、明智光秀の年齢を考えてみたい。

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