織田信長の壷〜明智光秀と本能寺の謎〜

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明智光秀の実像④~明智光秀は細川氏の中間あがりか~

time 2018/06/14

明智光秀は、細川氏の中間である。

との説を私が最初に目にしたのは、明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」だった。

それまでは細川氏の中間という身分だったという説に出会ったことがなかったが、調べてみると沢山出てくる。

前回までのように「土岐明智氏の嫡流であり、美濃を出た後は越前朝倉氏に仕えた」という通説の根拠は乏しいため、明智光秀のルーツは不明であり、どのような説も成立しうる。

そのため、「明智光秀は細川藤孝の中間であった」説も、一定の説得力を持っている。

明智光秀は細川藤孝の中間・卑しい歩卒・徒の者

興福寺多門院の院主、英俊が書いたとされる「多門院日記」と、宣教師ルイス・フロイスの「日本史」には「明智光秀が細川家の中間であった」と記載されている。

中間とは足軽の下、小物より上で、主人の従者として付き従い、戦時には戦い、平時は雑用をこなす身分を言う。出自は農民が多く、足軽に取り立てらることもあった。なお、豊臣秀吉は小物から仕え、小物頭、ついで足軽になったとされる。

また、医師江村専斎の「老人雑話」では「明智光秀は細川藤孝の家来だった」と書いてあり、「校合雑記」では「明智光秀はもと細川藤孝の徒のもの」とある。主人は細川藤孝としており、上と矛盾しない。

宣教師ルイス・フロイスは「イエズス会総長宛日本年報」において「信長の政庁に、名を明智といい、元は低い身分の人物がいた。すなわち、卑しい家柄の出であり、信長の治世の当初、或る貴族に仕えていたが」と報告しており、「日本史」では「彼(明智光秀)はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、公方様の邸の一貴人、兵部大夫(細川藤孝)と称する人に奉仕していたのであるが」と言っている。

籾井家日記には「明智十兵衛という族姓も知らぬものを(略)惟任日向守と名乗らせ」と書いてある。

むろん、真実かどうかはわからないが、「明智光秀は細川藤孝の家臣であった」というのは一つの説を成しうる。

明智光秀が細川藤孝の中間(家臣)だと、ストーリーがしっくりくる

通説では、故郷美濃を追われ諸国遍歴していた明智光秀は越前朝倉氏に仕え、将軍を奉じて朝倉を頼った細川藤孝と会い、意気投合し、美濃の織田信長を頼り…となる。

しかし、明智十兵衛尉こと明智光秀が、もともとからして細川藤孝の家臣(中間)であったならば、すべてはしっくりくる。

永禄の変を生き延び、亡き将軍の弟一条院覚慶(のちの足利義昭)を援け、近江六角、若狭武田、越前朝倉、美濃織田を頼った細川藤孝と終始一緒に行動していたのだとすれば、ストーリーはスムーズにつながる。

永禄の変で死んだり、三好陣営(足利義栄)についたり、領地に戻ったりして幕臣が不足する中で、細川藤孝が自分の家臣である明智十兵衛尉を足利義昭の足軽衆に抜擢してもおかしくはない。幕臣の人員不足の解消に寄与するし、自派閥の強化・拡大にもつながる。なにより明智十兵衛尉は有能であった。

この「明智光秀は細川藤孝の中間」説なら、実在が疑わしい父親や、土岐明智氏が支配したことのない可児郡明智、明智光秀と織田信長室(帰蝶・斎藤道三娘)とのつながりを示す必要はない。

逆臣明智光秀が細川藤孝の家臣だと都合が悪い

明智光秀を討ち、天下を取った豊臣秀吉は「惟任退治記」で明智光秀を土岐氏ゆかりのものとした。

それは、本能寺の変の直前(五月二八日・異説有)に、明智光秀が愛宕山で詠んだ

「時は今 天下しる 五月哉」

という発句が、明智光秀の謀反の表明であるとするためだった。

そして、その意に沿うように、様々な人間が保身のために、記録を改めた。

のち、明智光秀=美濃の土岐氏とする「明智軍記」や各種系図が成立した。それをベースに、細川家が「綿考輯録」を編纂し、明智光秀=美濃の土岐氏という通説ができた。

明智光秀と土岐明智氏を結びつけたのは羽柴秀吉であるが、細川藤孝の元家来では整合性が取れなかったのだろう。また、細川藤孝も息子忠興の妻であった明智たま(ガラシャ)を隔離・幽閉し、髻を切って親子ともども出家してまで明智光秀との縁を切ったほどの人間だから、逆臣明智光秀が元家臣であるとは言えず、「明智光秀は美濃の土岐明智氏であり、明智城は滅び、朝倉に仕えたが云々」としておくほうが得策であったと思われる。

土岐明智氏は1502年以降消えているし、朝倉氏も滅んでいる。明智光秀も滅び一族も死ぬか逼塞している中で、だれも否定できなかったろう。

明智光秀を倒して天下人となった豊臣秀吉にとっては、明智光秀が美濃の土岐氏でなければ都合が悪かったし、身内から大逆人を出した細川藤孝にとっても、明智光秀とかかわっていた痕跡をできるだけ消したかった。

両者の利害はそこに一致したのではなかろうか。

明智光秀は自分を瓦礫沈淪と評していた「明智光秀家中軍法」

また、「明智光秀家中軍法」という文書が残っている。

これは、明智光秀が天正九年六月一日に作成したものとされる。そう、明智光秀が織田信長を裏切る本能寺の変のちょうど一年前だ。この時明智光秀は、故・高柳光寿氏をして近畿管領と言わしめるほどの地位に立っている。

詳しくは検索していただければ、全文意訳しているサイトもあるのだが、軍法の最後に、心得と言わんばかりに、「既に瓦礫沈淪の輩を召し出され、あまつさえ莫大な人数を預け下さる以上は」という一文がある。
瓦礫とはつまらないもの。沈淪は落ちぶれたさまを指す。したがって、「つまらない身分であり、落ちぶれていた自分を拾い上げてくださり、さらには多くの軍勢をつけていただいた以上は」となる。

これを、国を追われた美濃の随分衆の言葉とみるか、細川氏に仕えていた中間上がりの男の言葉とみるか。

通説に惑わされず、虚心坦懐に考えれば、明智光秀=細川氏の中間説は、かなりの説得力を持っている。

次は、明智光秀の年齢を考えてみたい。

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