2020/05/07
系図類から明智光秀を美濃の土岐明智氏とすることは、
・父と推定される光綱、光隆、光圀の実在性が疑われること
・美濃可児郡明智という土地と土岐明智氏とのつながりがないこと
・土岐明智氏3家が明智光秀登場の60年前に消えていること
以上から、根拠不充分であることは前回述べた。
関連記事:明智光秀の実像②~明智光秀は美濃の土岐氏の一族か~
今回は、「立入左京亮入道隆佐記(立入宗継記)」の「美濃国住人ときの随分衆也」という記述に基づき、明智光秀を美濃の土岐氏とするの妥当性について考える。
立入左京亮入道隆佐宗継とはだれか
まず、「立入左京亮入道隆佐記(立入宗継記)」の著者である立入宗継は禁裏御蔵職という身分にある公家であり、生まれは大永八年(1528年)。
つまり、立入宗継が40歳の時に織田信長は上洛をし、54歳の時に本能寺の変、山崎の戦いを見ていることになる。
まさに、織田信長、明智光秀と同世代の人であり、朝廷からの使者として、織田信長や明智光秀と直接接触している。
実際に同時代に生きており、かつ、実際に接触している人が書いた記録は、かなり信頼できる。
何十年もあとに、全然ちがう場所にいる人が書いた記録、たとえば明智光秀の死後100年経って作られた明智軍記のような創作物や、その後に細川家の正式記録として作成された綿考輯録(細川家記)より信頼できるのは当然だろう。
だが一つ、問題がある。
この立入宗継、生年は大永八年(1528年)、つまり本能寺の変が起きた天正十年には54歳であり、しっかりと歴史的事実に立ち会っている。が、没年は元和八年(1622年)。94歳まで生きていた。ここに問題がある。
この時代に、表現の自由など保障されておらず、権力者への批判、権力者に不都合な記録は、できるものではない。
たとえば1589年、落首事件として知られるものは、京の聚楽第の塀に秀吉を誹謗中傷する落首が書かれ、怒った秀吉は警備をしていた17人の番衆の鼻と耳をそぎ落とし、磔にした。犯人とされる尾藤道休は本願寺にかくまわれていたが、自害に追い込まれ、尾藤道休をかくまったとして、天満町の町人63人が処刑されたという。
また、日記と言うと現代人はプライベートなモノであり、自分しか意味ないもの。イコール率直に自分の思ったことや考えを書くものだという認識になる。が、この時代の公家の「日記」は決してプライベートなものではない。
吉田兼見(このとき兼和)という人物は、吉田神社の神主で、公家としても光秀と大変親しく、本能寺の変後は勅使として安土に下向するほどであったが、山崎の戦で明智光秀が敗れると、自身が書いていた日記を書き直している。そして、六月十三日でとめた日記を別本、新しく正月元旦から書き直したものを正本として、現代に残っている。
権力者に検閲され、場合によっては身に危険が及ぶと考えたからこそ、その年の半分まで書いた日記を隠匿し、改めて都合の悪い部分を改竄しながらもう一冊書くほどのものが公家の「日記」というものだ。
兼見卿記は書き直す前の別本が残っているが、立入宗継をはじめ、ほかの人々が日記や記録の不都合な部分を書き直さなかったといえるであろうか。
なお、「立入左京亮入道隆佐記(立入宗継記)」は、荒木村重退治、明智光秀の丹波攻略、京都御馬揃え、武田討伐、そこから朝鮮討伐まで空いている。ここにも奇妙を覚えざるを得ない。
可能性の一つとして、山崎の戦いの直後に秀吉がその側近であり祐筆の大村由己に作成させた「惟任退治記」に合わせるよう、書き直した可能性がある。
秀吉の喧伝した惟任退治記は、明智光秀が土岐氏でないと具合が悪い
この「惟任退治記」、簡単に言えば、明智光秀を討った羽柴秀吉が、山崎の戦いの直後に、自分の側近であり、祐筆の大村由己に書かせたものである。
もちろん、羽柴秀吉を正当化するための書物であるため、羽柴秀吉は主君信長の仇を討った大忠臣、明智光秀は主君を裏切り殺した大悪人という構図がある。
惟任退治記は単なる物語ではなく、羽柴秀吉陣営の大本営発表ともいえる公式見解であり、これを公家に配り、大村由己が語り聞かせた。
つまり、それ以外の事実を書き残すというのは羽柴秀吉に対する挑戦であり、その後秀吉の天下になることから、惟任退治記に反する記録は事実上抹消されることになった。
ときは今 は明智光秀反逆の寓意でなければならない
羽柴秀吉が書かせた「惟任退治記」の中で、
時ハ今 天下シル 五月哉
今思惟之。則誠謀反之先兆也。何人兼悟之哉。
という一文が出てくる。意訳すると、
時ハ今 天下シル 五月哉
今考えれば、すなわちこれが謀反の兆しであった。だれが悟ることができたであろうか。
となる。
つまり、羽柴秀吉が書かせた惟任退治記は、明智光秀が愛宕山で詠んだ、時ハ今 天下シル 五月哉 という句を、明智光秀の謀反の意志の表明であると解釈した。
だから、時を土岐とかけ、天下シルを天下統るとかける必要があった。そのためには、天下簒奪をもくろんだ明智光秀は、土岐氏でなくてはならない。だから、明智光秀を土岐氏にせねば秀吉にとっては都合が悪かった。
土岐氏は、代々美濃を治める守護である。
ゆえに、立入宗継は、公家という立場上、もし光秀が土岐明智氏でないとしても「立入左京亮入道隆佐記(立入宗継記)」に「美濃国住人ときの随分衆也」と記述せざるを得なかったのではなかろうか。
一方で、宣教師であるルイス・フロイス、奈良興福寺の多門院英俊、当時は子供だった江村専斎などは、このような言論統制から比較的無縁であったのではないかと考えられる。
明智光秀自身が、土岐明智氏を自称していた?
一方で、明智光秀自身が、自分のことを「没落した土岐明智氏の流れ」だ、と立入宗継に告げていた可能性もある。
明智光秀は、織田信長が上洛してから一貫して京の政治に携わっていた。京を天下所司代村井貞勝が任され、当時京の政治に携わった柴田勝家、羽柴秀吉らが部将としてフェードアウトしていく中で、光秀は近江坂本、丹波に在りつつ、村井貞勝とともに朝廷とも関わり続けた。
その朝廷社交で、さすがに低すぎる出自は支障ありと考え、60年前に絶えて久しい土岐明智氏の嫡流を自称したのかもしれない。その時点で、もはや「いや、我こそが土岐明智氏の嫡流だ」と名乗り出るものもいなかったのだから。
立入宗継は単純にそれを記録した可能性もある。
また、京においては、明智氏と言えばイコール将軍の奉公衆であった土岐明智氏を連想したのかもしれない。
後年の、豊臣秀吉が架空の萩中納言や、天皇落胤説を言い出したように。
美濃土岐の随分衆なら、なぜ父の名が伝わっていないか
結論としては、明智光秀の出自を、美濃の土岐氏の一族である、と断定するには、残念ながら根拠が薄い。ここでも、明智光秀の前半生は不明とするしかないのである。
前にもふれたが、高柳光寿氏は
「結局光秀はその父の名さえはっきりしないのである。ということは光秀の家は土岐家の庶流ではあったろうが、光秀の生まれた当時は文献に出てくるほどの家ではなく、(中略)光秀は秀吉ほど微賤(びせん)ではなかったとしてもとにかく低い身分から身を起した」
と述べており、
土岐氏の庶流であったとは思うが、低い身分だったとの見解を示している。
また、桑田忠親氏は
『時はいま』(愛宕百韻(あたごひゃくいん))の『時』を明智氏の本姓『土岐(とき)』に暗示させたと解釈するのも、後世の何びとかのこじつけではなかろうか、と推測する。しかし、このこじつけのために光秀が土岐家の支族明智氏の子孫だということが、評判になったのである。(中略)(系図での光秀の父の名を挙げて)このような名前を持つ人物の実在性が確実な文献資料である古文書によって立証されるわけでもない。
と述べており、土岐氏と明智光秀をつなげることに懐疑的である。
もし、明智光秀が「美濃ときの随分衆」であるならば、なぜ彼の父は全く記録に残っていないのだろうか。
父だけでなく、祖父や叔父の名が確認できる古文書は今のところ発見されていない。
本稿では、通説とされる「明智光秀=美濃土岐の一族」説は根拠が乏しく、信憑性に欠けるということがわかった。
したがって、美濃土岐明智氏の嫡流というきらびやかな出自と言うよりも、
①美濃土岐氏の庶流ではあるが、低い身分だった(高柳光寿氏)
②美濃土岐氏であるというのはこじつけ(美濃土岐氏ではない)(桑田忠親氏)
①~②に落ち着くだろうと考える。
もう一つは
③美濃土岐明智氏ではないにもかかわらず、美濃土岐明智氏を自称した
という①と②の中間のようなものも考えられる。
別に、ひとつ面白い説がある。明智光秀という人物は、じつは細川藤孝の中間あがりだ。という説だ。次は、この説を考えたい。
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コメント
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