織田信長の壷〜明智光秀と本能寺の謎〜

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明智光秀の実像②~明智光秀は美濃の土岐氏の一族か~

time 2018/06/12

時は今 雨が下しる 五月哉

時は今
天が下しる
五月哉

という有名な句は、明智光秀が本能寺の変の直前に、愛宕山にて行った連歌、いわゆる愛宕百韻の発句であると言われている。そしてこの句は、

今こそ土岐氏である明智光秀が、
天下を統べる
五月である

と解釈され、光秀は自分が天下を取るために、本能寺の変をおこした、と言われている

(無論、これから謀反をする意気込みをわざわざ歌に込めて詠むはずがないのだが。)

なお、このように解釈、喧伝したのは惟任退治記(惟任謀叛記)である。惟任退治記は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に祐筆・側近として仕えた大村由己が天正10年(1982年・本能寺の変と同年)に成立させたもので、本能寺の変~信長の葬儀までを著述している。

愛宕百韻については別稿に譲るとして、そもそも明智光秀が土岐氏なのかどうかを考えてみたい。

なお、土岐氏は室町幕府の三管領四職家に次ぐ家格であり、美濃守護の地位にあった家柄である。

明智光秀は、美濃土岐氏の一族か

 系図、というのは怪しいもので、自分を飾りたてるために、著名な人物や架空の人物をとってつけてくることがある。江戸時代には系図屋といってよい職業があったし、現代でも行政書士や業者が、戸籍で遡れないほど古いものについては、根拠不充分ながらも作成して商売しているケースもある。

 だから、よほどの名家でない限り、ごまかしの産物である系図をベースに考えるのは賢い行いとは言えない。だが、小和田哲夫氏の著作、「明智光秀と本能寺の変」を要約し、まずは父親を考えてみる。

①明智光綱説・・・「明智系図」(系図纂要)、「明智氏一族宮城家相伝系図書」(大日本資料)、「明智軍記」
②明智光隆説・・・「明智系図」(続群書類従)、「明智系図」(鈴木叢書)
③明智光圀説・・・「土岐系図」(続群書類従)

とあり、父親だけでも「光綱」「光隆」「光圀」の三つの説がある。系図類の伝えることがどれもまちまちで、伝説の域を出ない。

系図も、軍記も、明智光秀が土岐氏の一族であり、愛宕百韻の発句は天下取りを意味している。という解釈に合うよう後付けでなされた可能性があり、実際、父とされる光綱、光隆、光圀が何者なのかもはっきりせず、彼らの名前のある良質の書状も発見されていない。光綱にせよ、光隆にせよ、光圀にせよ、その実在さえはっきりしない。無論祖父光継や叔父光安も存在を証明できるものはない。

明智光秀の系図のとらえ方 土岐明智氏か、こじつけか

 小和田哲夫氏は、前掲の「明智光秀と本能寺の変」の中で、明智光秀が当初より明智という苗字を名乗っていること、明智氏が美濃土岐氏の別れであることを前提に、その出身地を美濃国内に求めている。ただ、歴史に名前が出てる以前に改名している可能性はあり、「明智光秀が当初から明智を名乗っているから土岐明智氏の別れである」と言うのは首是しかねる。

 高柳光寿氏は、”土岐の庶流ではあったろうが、光秀が生まれた当時は文献に出てくるほどの家ではなく、光秀が立身したことによって明智氏の長広く世に知られるに至ったのであり、そのことは同時に光秀は秀吉ほどの微賤ではなかったとしても、とにかく低い身分から身を起こした”としている。

 桑田忠親氏は、明智光秀と土岐氏を関連付けることは、後世のこじつけであるとの懐疑的な見方を示している。上の系図類は、後世編纂されたものであるという。

 現状の資料では、少なくとも土岐氏の一族であると断定はできない。資料を重視するならば、桑田忠親氏の見解が、研究者として正しい姿勢だろう。

美濃には2つの「明智」という地名があった

美濃には明智という地名が2か所ある。恵那郡と可児郡だ。谷口研語氏の「明智光秀(歴史新書y)」によれば、

恵那郡の明智は、遠山姓の明智氏が寄っていた。この家は幕府奉公衆でもあるが、明智は明智でも、遠山姓であり土岐氏ではない

一方で、可児郡にある明智は、土岐明智氏の版図が最大だった時にも、土岐明智氏が可児郡明智を治めた記録がない、という。(石清水八幡宮領)

つまり、美濃明智と、土岐明智氏のつながりは確認できないことになる。

明智光秀登場の60年前に消えた3つの土岐明智氏

谷口研語氏の「明智光秀(歴史新書y)」によれば、明智光秀が歴史に登場する60年前に、土岐明智氏は、上総介家、兵庫頭家、中務少輔家の3つがあったとされる。

上総介家は文亀2年(1502年)の明智頼明・頼尚以降は名が見えなくなってしまう。また、その時の所領は土岐郡内の妻木村・笠原村・駄智村半分・細野村半分であったという。

兵庫頭家は玄宣いうものが幕府奉公衆として出仕しており、上総介家と領地争いをしていた。連歌界の大物であったという。

中務少輔家も幕府に仕えており、外様衆であったとされる。政宣という人が連歌界でも活躍しており、中務少輔家の通字が「光」だったという。

明智光秀が15代将軍足利義昭の幕府足軽衆として明智の名がみえること、連歌に長じていたこと、名に「光」の字が入っていることを考えると、土岐明智氏の中でも中務少輔家のほうが明智光秀とつながりがありそうだが、これらの幕臣明智氏は明応の政変(1493年)以来名が消えてしまい、系図類はつながらない。

これらの土岐明智氏が歴史から見えなくなって60年後に、明智十兵衛尉なる人物が突如として歴史に現れるのである。

美濃国住人ときの随分衆也「立入左京亮入道隆佐記(立入宗継記)」

そして、明智光秀が美濃のそれなりの出身だという主張に援用される書物として、「立入左京亮入道隆佐記(立入宗継記)」というものがある。

著者である立入宗継は禁裏御蔵織という身分にある公家であり、生まれは大永八年(1528年)。まさに、織田信長と同世代の人であり、朝廷からの使者として、信長と接触している。

その記述の中に、明智光秀を「美濃国住人ときの随分衆也」というのがある。
純粋に読めば、美濃の土岐氏の相当な身分のものである。と解釈するのが妥当であろう。現に、小和田哲夫氏は、前掲の「明智光秀と本能寺の変」の中でこのような見解を示し、明智光秀は美濃の土岐氏の相当な身分であったという見方をしている。

次は、「立入左京亮入道隆佐記(立入宗継記)」の「美濃国住人ときの随分衆也」という記述の信憑性を考えてみたい。

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