織田信長の壷〜明智光秀と本能寺の謎〜

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明智光秀の実像①その出自~明智軍記に基づく通説を疑う~

time 2018/06/11

明智光秀の実像①その出自~明智軍記に基づく通説を疑う~

明智光秀という人は、あまりにも有名だ。

というのも、日本史上知名度ナンバーワンである織田信長という天才を、本能寺の変で殺したからだ

明智光秀という名前は、日本人であれば歴史にあまり興味のない人でも、知っている。

だが、これほどまでに有名な明智光秀の出自については、実はあまり知られていない。

通説に見る明智光秀の出自(明智軍記)

明智光秀が歴史の舞台に出てくるのは、永禄12年(1569年)4月14日付の賀茂荘中宛の連署状(沢房次氏所蔵文書)であり、それ以前については闇に包まれている。

そして、歴史以前の明智光秀について、通説ではこのように言われている。

美濃の国人。美濃守護土岐氏の一族。
美濃を支配していた斎藤氏の内乱の際、叔父明智光安が敗北。居城である明智城を追われ、流浪の身となる。
諸国遍歴の上、越前の朝倉家に仕官する。
そして、朝倉家を頼って落ちてきた足利義秋(のちの室町幕府第15代将軍足利義昭)と、それを支える細川藤孝に協力し、尾張国、美濃国を支配する織田信長を頼るよう提案。
織田家との橋渡しをする。

その後、信長の助力を得て、はれて征夷大将軍となった義昭と、織田信長に両属する形となり、永禄十二年(1569年)四月十四日付賀茂庄中宛ての書状で、歴史の中にその名を刻み始めることとなる。

その後はよく知られるように、信長の部将として活躍する。比叡山焼き討ち後、近江坂本を拝領し一城の主となる。信長と将軍義昭の対立時には信長につき、丹波攻めを任されながら各地を転戦し、丹波攻略後は、中国にて毛利家と対峙している羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の応援に向かう。その途上で、突如進路を変え中国ではなく京へ向い、本能寺にいる信長を襲い、次いで二条城の織田信忠を討った。いわゆる本能寺の変である。

その後は天下を握るが、驚異的な速さで中国から戻ってきた羽柴秀吉に山崎の戦いにて敗れ、落ち武者狩りに遭い落命してしまう。

以上がよく知られる明智光秀の生涯だ。が、実は、その前半部分については、永禄十二年に「明智十兵衛尉」という名前が出てくるまでの来歴は、はっきりしない。
それまで明智光秀がどこで何をしていたか、はっきりしたことはわかっていないのだ。
実際は、美濃出身なのか、土岐氏の一族なのか、そもそも明智氏だったのかさえわかっていない。父の名も、何年の生まれなのかもはっきりしない。まさに、明智光秀という人物は、謎だらけなのだ。

では、なぜ、このような来歴が定説として定着しているか。

それはと「明智軍記」という書物に書いてあることが、広く流布してしまったからだ。

誤謬充満の悪書「明智軍記」が明智光秀像をゆがめた

「明智軍記」という軍記物がある。歴史家の中では作り話だと理解されている書物だ。成立は元禄年間(1688年~1704年)とみられている。少なくとも、天正10年(1582年)に明智光秀が山崎の戦いに敗れ死去してから、100年後に成立した書物である。作者は不明。主人公はもちろん明智光秀である。

物語としては面白い。が、書いてあることがでたらめばかりなのである。

明智軍記において、光秀は明智城落城後の2年間という短期間で、北は大崎、南は薩摩までを、政治や軍事を研究しながら諸国を巡歴したという(そんな短期間では不可)。またその際、大崎には伊達氏、広島には毛利元就がいたという(伊達も毛利も、まだそこにいない)。流浪の身になる原因も、斎藤義龍は竜興に攻め殺されており(義龍と竜興は争っておらず、実際は道三と義龍の争い)、永禄9年義父の織田信長に仕えた、とある。

戦国史研究の権威である、故・高柳光寿氏をして「誤謬充満の悪書」と言わしめるほどだ。

だが、結果的には、この明智軍記に書いてある明智光秀の前半生が通説となってしまっている。

なぜか。

本能寺の変 431年目の真実」の中で、著者である明智憲三郎氏が述べているが、大きく分けて理由は2つ。

1つめは、作家、司馬遼太郎氏の作品「国盗り物語」の中で、明智光秀の前半生を明智軍記に依拠しており、それが人口に膾炙したこと。(インターネットで検索したところ、2005年時点で、発行部数は670万部とのこと)

2つめは、戦国史研究の権威である、故・高柳光寿氏が、「綿考輯録」をベースに、明智光秀の前半生をこのように推定したこと。

この二つを、明智憲三郎氏は指摘している。
詳しくは、氏の著書を読んでいただいたほうが早いが、とても説得力のある説だ。

1つめの、司馬遼太郎氏は、言わずと知れた歴史小説家であり、著書の総発行部数は1億部をこえるという。
が、歴史小説というのは物語に過ぎない。小説はしょせんフィクション、ねつ造であり、歴史小説といっても事実3割、脚色7割という世界である。大まかな材料が設定として存在している中で、自由に書き手が物語を作っていけるものだ。

それを、100%事実であると鵜呑みにしてはいけない。

つまり、司馬遼太郎氏の描いた「明智光秀」というキャラクターは、実在の明智光秀とは違う、ということだ。

2つ目の故・高柳光寿氏が明智光秀の前半生をこのように推定したことベースになった「綿考輯録(細川家記)」は、明智軍記成立から半世紀下った延享年間(1744年~1748年)に成立した、細川家の家記である。

そしてこの細川家も、明智光秀と親交の深かった細川藤孝(長岡兵部大夫藤孝・幽斎)の家であり、織田、豊臣、徳川時代を生き抜き、江戸時代は肥後熊本藩52万石として存在し、維新後は侯爵家となり、戦後日本国の総理大臣まで輩出した名家だ。

この「綿考輯録」の細川幽斎の項は、先述の「誤謬充満の悪書」である明智軍記に基づいている。また、明智光秀は逆賊であるため、できるかぎり光秀と細川藤孝の関係を隠ぺいした可能性も否めない。

したがって、明智光秀という人物が、
①美濃守護土岐氏の一族であり、
②美濃の出身であり、
③越前の朝倉氏に仕えていた。

という、まるで事実のように広く流布している通説は「誤謬充満の悪書」である明智軍記に基づいているためかなり根拠が薄い

明智光秀という、日本史の中でも有名なこの人物は、実のところかなり謎だらけなのである。

次は、今までの通説である、
①美濃守護土岐氏の一族であり、
②美濃の出身であり、
③越前の朝倉氏に仕えていた。
という点が事実でない可能性が大いに考えられるということを踏まえ、さらに明智光秀の前半生を考えてみたい。

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